迷いみち

7話

相変わらず旦那は忙しそうだ。
予定なんてあってないようなもの、急な変更ばかりの日が続く。
今日だってそうだ、朝出る時は夕飯食べるからなんて言っていたのに、もうすぐ午前様という時刻に
―夕飯は済ませた、これから帰る―
そんなメールが一つあるだけ。
旦那の好きな刺身を買ってきたけれど、明日の夕飯だって食べるかどうか解らない。
冷蔵庫を開け麦茶を取り出しながら横目で刺身を一睨み。
刺身に罪はないけどね。

こんな時は寝るに限る。
起きていたら、言いたくない事まで言ってしまいそうだから。
ベットに入っても中々寝付けなかった。

そのうちガチャっと鍵の音。
直ぐに階段を上がってくる足音が聞こえ、寝室のドアが開かれた。私の横を通ってクローゼットへ。夜遅く静まり返った部屋の中、旦那の出す音が彼の行動を教えてくれる。
上着を脱ぐ音。
シャツを脱ぐ音。
スラックスを脱ぐ音。
そして、引きだしを開け夕方私が畳んだばかりのパジャマに袖を通す音。

そして、そのままベットに潜り込む音。
シャワーさえ浴びていないというのに、旦那は気にもせず寝てしまうらしい。
ベッドボードに携帯を置くコトっという音を最後に再び部屋に静寂が訪れた。

本当は、少しだけおかしいってそう感じ初めていた。
長年一緒にいるから旦那の性格は熟知しているつもり。
見当違いの事を問いただすと、何を言ってるんだよと笑い飛ばす癖に
当たっていると逆切れをする。

本当に仕事なの?

その問いは未だに聞く事が出来なかった。
それから1週間経った頃だった。

ガタガタガタという振動で目が覚めた。
時計を見ると午前2時。
振動は旦那の携帯電話からだった。
メールのようで、それは直ぐに静かになったのだけど……

私はそのまま目を瞑った。
だけど一度さえてしまった目は中々元に戻らなくて、一つ寝がえりを打って布団を被った。
それから程なくして、旦那が携帯に手を伸ばす音が聞こえた。
暗い寝室に、チカチカと弱い光を発する携帯電話のメールを着信するランプに気がついたのだろう。

「何かあったの?」
私は布団から少し顔出し、旦那に聞いてみた。

パタリと携帯を閉じた音がした後
「迷惑メールだよ、全くこんな夜中にいい迷惑だ」
と憤慨している声。

「そっか、お休み」
そう言ってまたまた無理やり目を瞑ったのだった。

それからも深夜の迷惑メールは何件か気がついた。
いつも決まって深夜2時に送られてくるメール。

朝食の支度をしながら、テーブルで新聞を読んでいる旦那に
「もしかして、怪しいサイトとかにアクセスしているんじゃないでしょうね〜」
それは、ほんの冗談のつもりだった。
それなのに旦那は
「何で、俺がそんなサイト見なくちゃいけないんだ」
そういって、新聞を乱暴に投げつけて、席を立った。

私は暫しの呆然。
そんなに怒る事なのだろうか?
このパターンはいつもの逆切れ。
本当に怪しいサイトでも見てるのかしら。
それとも……私の中に旦那に対する疑念が深まった朝だった。

その日を皮切りに、旦那との会話が減り続けた。
私は冗談も言ってはいけなかったのだろうか。
一人家の中にいるとイライラが増すばかりだった。
そしてそれは子供にも向かってしまって、自然と小言が多くなる。
これではいけない。そう思うのだが止める事は出来なかった。
子供達が無理に私を笑わせようとしているのに気がついたのは、そんなに時間がかからなかった。自分との葛藤が始まった。
そんな私が、一人安らげるのは、ネットだった。
旦那の帰りが遅い分、私はますますネットにのめり込んだ。
自分にはどうしたって、取り戻せない若かりし頃の淡い思いを、自分と重ねつつ没頭する時間が唯一旦那の事を忘れる時間でもあったのだ。

その日も夢中になって読み漁った。
だけど、凄くいいところで旦那が帰ってきてしまった。
会話が無いとはいっても、夕食の用意はしない訳にいかない。
また明日にしよう、後ろ髪を引かれる想いだがしょうがないとパソコンを閉じたのだった。

今日もまた会話のないまま、一日を終えた。
自分に言い聞かせる。
こうやって毎日帰ってきて、休みの日には子供相手もしてくれている。
お給料だって毎月ちゃんと入れてくれている。
これの何が不満だって言うの? と。
そう思い込まないとどうにもならなかったのだ。

布団に入って目を閉じた。
そこに浮かんでくるのは、さっきまで読んでいた小説の舞台。
自分の高校に脳内変換されたその場所だった。

隣のベットからは旦那のいびきが聞こえてきた。
もうちょっとだけだから――
私は静かに、ベットを降りるとパソコンの置いてあるリビングへと向かった。
椅子に座ると、パソコンが立ちあがるのももどかしい。
まだかまだかと画面を凝視している私がいた。
話のストリーは私の想像以上で、読み終わった直後には年甲斐もなく顔が火照っている私がいた。満足感いっぱいで、気分も上昇するとパソコンの電源を落とし、再び寝室へと足音を立てずに戻りはじめた。

なるべく、音をたてないようにと寝室のドアに手を掛けると、旦那の声が聞こえた。
寝言かなと思ったのは一瞬だけ、それは確かに相手のある話し方だった。

携帯で誰かと話しているんだ。

思わず手を止めて旦那の声に聞き入った。
その声は、もう忘れてしまうほど昔に聞いた旦那の声だった。
低く甘い声。
旦那の何が好きだったかって、初めはこの声に惹かれた私。
だけど、結婚して数年立つとその甘い響きは聞こえなくなってしまったのだ。
旦那の囁く甘い言葉。
私では誰かに向けたその言葉。
私は膝ががくりと落ちて、暫くその場に座り込んでしまった。
気がつくと寝室からは声が止んでいた。
その場でわざと足踏みをして、寝室のドアを開けた。
そこには私がさっきこの部屋を出た時と何ら変わりがない、いびきをかいた旦那の姿があった。
大きく跳ねる心臓の鼓動。
私は胸を掴んで静かにベットに沈み込んだ。
朝まで寝られなかった。
枕元に置いてある目ざまし時計の音を聞く事なく、スイッチを切った。
明るい日差しに、小鳥のさえずり。
昨日とはなんら変わらない朝の風景。
だけど、まだベットに横になっている旦那を見る目だけは変わってしまっていた。
これから私はどうすればいいのだろう……
旦那を見つめこれからの自分がどうあるべきか、考えなくてはいけない、そう思った。

洗面台で顔を洗い、鏡で自分の顔を見た。
たった一晩寝なかっただけなのに、目の下のくまが凄い事になっていた。
本当は何もかも放り投げて、何処かに閉じこもってしまいたい。
そう考えるけれど、私には恭平と晃平がいる。
子供達の為にも、しっかりしなくては。
鏡の自分に背を向けた。