迷いみち

8話
それから、私は家の中を磨く事に専念した。
身体を動かしていなくては、余計な事を考える。
本当はネットにと思ったけれど、心に思う事があり暫くの間ネットは封印する事にした。

なるべく子供達の前では、自然に。
そうしていたつもりだった。
気づいていないと思っていたのに。
それは突然の事だった。

いつものように、子供達の夕食を済ませ、風呂に入れ寝かしつけた。
コーヒーをいれ一息ついていた時だった。
電話が鳴った。
10時を過ぎたこの時間、我が家の電話が鳴る事は皆無に等しかった。

「もしもし」
不安げに受話器をあげると

「今晩は夜分遅くに申し訳ありません」
そうかしこまった、聞き覚えのある声がした。
ドキッとした。それはアラケンの声だったから。
一瞬嫌な予感が頭を過る。
もしかして恭平が何かしてしまったのだろうかと……
でもその予感は当たらなかった。

――何かあったのか? 最近母さんの様子がおかしいって恭平、俺に相談してきたぞ――

息を呑んだ。恭平が? 気づいている?

「何て言ってった?」
砕けたアラケンの声に私も同調する。

――ぼーっとしてるってよ。俺が何か悩み事があったら何でも相談しろよって言ったら、あいつ、真っ先にやってきたぞ、お前愛されてるな――

「別に、どうってことないの。ちょっと疲れただけだから」
そう言いながら、頬に一筋の涙がつーっと伝ったのが解った。
顔を見られなくて良かった、心底そう思った。私が波を流したなんて解るはずないそう思ったのに。

――俺には今お前が泣いているように思うのだけど気のせいか? ――
そんなアラケンの声が、私の涙腺を壊してしまった。
涙だけでなく、鼻までもが決壊してしまったのかのよう。
アラケンはただ黙って、私が落ち着くまで待ってくれていた。

「何だかね、子供って親の知らぬ間に成長するんだなって感動しちゃったんだって」
きっとアラケンは私の涙がそれだけじゃないって見抜いているはずだ。
だけど、その事には一切触れてこなかった。
ただ……

――これから言う番号メモしておけ――
そういって11桁の数字を羅列した。
言わなくても解る、これはアラケンの携帯番号だ。

――いつでも、かけてきていいから――
そう言ってくれた。
そして、私の心を揺さぶる言葉を告げて電話が切られた。

役得だな。職権乱用と言われそうだけどお前と話が出来て喜んでいる俺がいるよ、忘れた女は沢山いるけど、お前の事ずっと忘れられなかったから、なんせ初恋の相手だからな。

電話が切られてからも、暫く受話器を握りしめたままの私がいた。
冗談だって、解ってる。からかわれたって解ってる。
だけど、次にアラケンに会う時は子供の担任ってだけじゃない感情が沸いてしまそうで、自分が怖くなってしまった。
本当は少し、そうほんの少しだけそう思い始めていた。
ネットを封印したのは、気がついたら恋愛小説の主人公を自分とアラケンを重ねてみている自分に気がついてしまったから。
これじゃいけない。旦那と同じじゃないの。
自分の手からはがすように受話器を電話に戻した。

今日も旦那は接待だと帰ってこなかった。
誰を接待しているのだろう。
旦那は私が気がついているとは思っていないはずだ。

こんな茶番をいつまで続ければいいのだろう。
あの時の私ではない誰かに向けた旦那の声が頭の中をこだましていた。

静かになったリビングで時計の針が動く音だけが、コチコチと規則正しく響いていた。
それを上回る私の鼓動。
それは、旦那の事でなのか、アラケンの言葉でなのか。
解りたくないけれど、解ってしまう私がいた。

何となく寝室で眠る気がおきなくて、私はソファに座って夜明けを迎えた。
昨日メモしたアラケンの携帯番号は、綺麗に畳んで財布のポケットに入れておいた。
きっと掛ける事は無いと思う。
だけど、その紙を捨てる事が出来なかったのは、何かにすがりたいと思う気持ちがあったから。
私にはいざとなったら、話を聞いてくれる大事な友達がいる。
そう、私はアラケンの存在を架空の親友に見立てる事にしたんだ。
これは、お守りだ。
何の変哲もない財布。
それはブランドものでも何でもなく、バーゲンで買った、ただ使い勝手の良いだけの財布だったのに。
アラケンの携帯番号を入れただけで、とっても大事なものになった瞬間だった。
これがあれば大丈夫。そう自分に言い聞かせた。

取り敢えずは子供達の事だ。
特に恭平。
男の子だから、あんまり関心がないように思っていたのに。
多感な年頃だけに気をつけなくては。

そう思い始めてから、私は変わったと思う。
旦那は相変わらずだったけれど、子供達にだけは誠実だ。
休みの約束は破られた事はないし、話掛ける事も忘れていない。
私の事にしたってそうだ。
深夜の帰宅後の会話はなくたって、子供を介せば普通に話掛けてくる。
私は旦那の声に笑顔を付けて声を返していた。
それだけを見れば幸せな家族そのものだった。
しかし、その穏やかな週末を終えるとまた、その雰囲気もまた終える事となる。
旦那の子供達に対する態度は、まるで日々の償いのように見えてしまう。
そして、冷めた目で旦那の寝顔を見る私。
事を荒げてはいけない。
私が知らない振りをすればいいのだ。
そうすれば、きっといつか旦那も……
そうなって欲しいと願うのは本心なのか、それは良く解らないけれど今はそうするのが、そうしなければいけない。
そう考えていた。

本当は気になる、気にならないはずがない。
旦那の相手が誰なのか。
相手の詮索をすることは、精神的に辛すぎた。
だから私は知らないふりをするのかもしれない。

ふと最近読んだ、ネットの小説を思い出した。
あまりにも自分の境遇に似たその話。
私は怖くてその先を読む事が出来なかった。
今の私と丁度同じようなところで読むのを止めてしまった。
これはリアル。
私に起こったリアルな出来事。

現実に目を瞑った。