涙の訳

ちょっとの期待

「今晩は」
いつもは踏み入れることのない事務室。
「あら。良く来てくれたわね」
見知った顔の事務員さんがにこやかな笑顔を見せてくれた。

志望大学に受かった事を報告して、中にいる事務員さんや、休憩中の先生にチョコを渡した。
少しの歓談の後、私は塾から出ることにした。
この中にはまだ受験の終わっていない生徒が沢山いる。
受かった私がのこのこ顔を出しているのは、きっと良いものじゃないに違いない。
そんな雰囲気が立ち込めていたからだ。
それに私は誰も会わない方が都合がいいのだから。
初めから塾のすぐそばにある喫茶店で、時間をつぶすつもりだった。

あなたのいるだろう教室が見える窓際の席に腰を下ろす。
ショーケースに飾られたケーキがとても美味しそうに見えたけれど、夕食を食べ終えたばかりの私に入る余裕もなく。
アルバイトだろう、私と年の変わらない位の男の子に大好きなアールグレーを注文した。
程なくして、テーブルに可愛いポットが置かれる。
シンプルですっきりとしたカップは、程良く温められていて紅茶を注ぐと辺りにアールグレーの上品な香りが充満した。
チョコンと添えられたレモンを端によけ、一緒に置いてくれたミルクをたっぷりと注いだ。
砂糖を2粒カップに入れて銀のスプーンでかき混ぜた。
そっとカップを持ち上げて口に添える。
ざわついた心臓を少しだけおさめてくれるようなそんな感じがした。

サーバーに残った紅茶をもう一度注ぐ頃には、まばらに塾から出てくる生徒が目に入った。
さっきまで全部の教室が明るかったのだが、ちらほら電気が消え始めるところも出てきた。
私が見つめる教室はまだ人影が見えていた。
もしかしたら、今頃誰かに渡されているかもしれないとどうしようも出来ない癖に焦ってしまう自分がいる。
彼女でもなく、それをも望んではいないというのに。
お礼をね。お礼を言いにきたんだよと自分に言い聞かせた。

やがて、すべての教室の電気が消えた。
この後も先生達は今日の授業についてのレポートや明日準備をするはず。
あと30分位かな。

すでにカップには紅茶が少ししか残っていなかった。
先ほどから、さっきのアルバイトの人が水のお変わりを聞いてくる。
早く出て行って欲しいのかななんて思い始める。
この時期、この時間外で待つのは正直辛い。
それこそ風邪を引いてしまいそうだ。

向けられる視線から逃れるように、窓の外に目を向けた。
見知った先生が駅へと向かって歩き始めた。
もう直ぐかもしれない。
ちょっと長く居すぎた席を立ちあがり、伝票を手に取った。

アールグレー380円。

一生覚えていそうだよ。
初めての失恋と共にね。

店を出ると塾から少しだけ離れた電柱の陰に私は立った。
吐く息が真っ白だ。
まるで煙草をふかしているよう。
口をすぼめて、息を吐くと真っ直ぐに白い息が流れていった。
手袋をした手を何度もこすり合わせ体をよじる。
足の指先から頭のてっぺんまでじわじわと寒さが押し寄せてきたその時、塾からあなたが出てきた。

無意識に足が動いていた。
電柱の陰から1歩2歩飛び出していた。
先生ーっそう声をかけようとした時、後からやってきた先生仲間にあなたは腕を取られていた。
男子生徒に人気ナンバー1の英語の先生だった。

一瞬あなたと目が合ったような気がしたけれどこっちは暗闇。
きっと気がついていないはず。
そう思ったら、あなたと逆の方向に走り出していた。
だけど、思うように足が上がらない。
寒さのせいだけはない、違った震えがあったからだ。
一本目の角を曲がったところで私の足は止まってしまった。
案の定、足は震えていた。
膝頭に手を当てて、震え止まってと強く握る。
震える足に乱れた呼吸。
動揺しまくっている私がいた。
同時に耐えきれず涙がこみ上げてきそうで必死に堪える。


なんで逃げているの?
お世話になりましたって挨拶するだけだったんでょ?
あの日、あの電話をするするあなたの姿を見てから、解っていたはず。
あなたにとっての私は只の生徒だって言うこと。

何度も深呼吸をして顔をあげると。
私の数歩先にはあなたが立っていた。

「どうしたんだ?こんな時間に。人の顔見て逃げ出すなんて心配するだろ」
って。

さっきまで泣きそうだった私の涙は驚きすぎて引っ込んでしまったらしい。
私は、何も言えずにあなたの顔をじっと見つめていた。

「何だよ。何があった?相談事か?」
心配そうに、一歩私に近づいた。

「違うの、凄くお世話になったからこれ渡したくて、でも一緒に……あの先生が出てきたから邪魔かなと思って」
そう最後は尻すぼみになりながら、握りしめていたドラックストアの袋を前に差し出した。

あなたはあの笑顔で
「お世話って、当たり前だろお前は俺の生徒なんだから。でも折角だから貰っておくな」
そういって私の手から紙袋が離れていった。


当たり前だろ俺の生徒なんだから

あなたは何気ない一言なのだろうけれど、私の心に突き刺さるその言葉。あの先生の事も触れず仕舞い。
解っていた現実を更に思い知らされる。

「開けていいか?」
その一言に私は頷いた。

カシャリと紙のこすれる音。
そして、紙袋の中ほどまであのハンドクリームを持ち上げて確認した後
「ありがとな」
そう言ってくれた。
私はそれだけで満足でしょ、もう一度自分に言い聞かせる。

「じゃあ、私はこれで」
そう言って背中を向けた。
あなたの笑顔が見れたから。
心は苦しいけれど、こうやって追いかけてくれただけで、あなたを好きになった事後悔しないそう思ったのに。

「送って行くよ。もう遅いし俺、自転車だから後ろ乗っていけな。ここで待ってて」
私の返事も聞かないであなたは走っていってしまった。

夢じゃないよね。

あまりの出来ごとに私の体は言うことを聞いてくれなくて足は竦んで一歩も動かなかった。
あっという間にやってきて
「どうぞ」
と後ろの荷台を指さす。

だから足が動かないんだってば。
心の中で訴える。

すると
「そっか、荷台に乗るのを嫌ってことを考えなかったよ。じゃあ歩いて帰ろう」
そう言って跨っていた自転車を降りて私の横に並んでくれた。

咄嗟に
「嫌じゃなくて」
そう言葉にしていた。そうとうアタフタしていた私。

ぷっと噴き出して笑うあなたに、ちょっとむくれてみたが、そのお陰で緊張が解けたみたいだった。
「お願いします」
と荷台を指さした。

「はい。喜んで」
そう言ってもう一度自転車に跨ったあなた。

横向きに自転車の荷台に腰かけてサドルを掴んだ。
あなたの背中がこんなにも近くにあるなんて。
それと同時に、こんなに甘い時間を過ごしてしまって、忘れることができるのだろうかとそっちの方が不安になる。

他愛もない会話しながら、私の家に近づいていく自転車。
「あの角を曲がると直ぐですから」
そう告げるとあなたはブレーキをかけた。
「じゃあ、ここからは近所の人の目もあるだろうから歩いていこうか」
とほんの少しでもあなたと一緒にいられる事が嬉しくて堪らない。
たとえ、それが周りの目を気にしてのことだろうと。

角を曲がるその時、あなたの足が止まった。

「卒業式、いつだっけ?」
唐突に質問された。

「あっ来月の10日」
そう答えた私に満足げに頷くと。

自転車の籠に入れてあった紙袋を手に取って中からあのチョコを取りだした。
「これ、ありがとうな。もしかして俺の勘違いじゃなかったら……」
言葉を濁したあなたに耐えられなくて、私は自分から終止符を打ってしまった。

「好きなんです。迷惑なのは解ってます。だけど返さないで下さい。これで最後にしますから」
あなたからは直ぐに返事はかえってこなかった。

もうお終いだ、そう思って駆け出した私に
「返事は来月、ホワイトデーに。それが返事だから」
そう言ってくれた。

私は振りかえることが出来ずにそのまま家に向かってしまった。
怖かったんだ。
だって、さっきまでの笑顔が消えてしまっていたら?
最後に見るあなたの顔は絶対笑顔ってそう思っていたのだから。

玄関先では父が心配そうに立っていた。

「遅かったじゃないか。連絡しろと言われただろ?」
張り上げることなく、低い声で淡々と出される言葉は本当に怒っている証拠だ。

泣きそうな真っ赤な顔をして、ごめんなさいという私にそれ以上父は何も言ってこなかった。
父には申し訳ないが私はそれどころでは無かった。
部屋に入ってもさっきの出来事が信じられない。
もしかして期待していいのだろうか?
それとも……。
着替えることなくどれくらいベット腰かけていたのだろう。

トントンとノックされる音で我に返った。
母だった。

本当に心配したのよ。あなた最近少し変だったでしょ?
刺激しないように何も言わなかったけれど、大丈夫なの?

優しい声だった。

ごめんね、連絡しないで。
そこの角までは先生が送ってくれたの。
遅いからって。
私、第一志望の大学に受かると思わなくて。
それでね。
先生達と話込んじゃって。

とぎれとぎれになりながら、単語のように言葉を紡いだ。
母はひとつひとつ頷きながら、聞いてくれた。

心配かけてごめんなさい。
もう大丈夫だから。

母は最後に
「何かあったら相談してね」
そういって部屋を出ていった。

そして、それからあなたにも会うことなく卒業式を迎えた。