贅沢な願い事

本音


私は手に残されたカードキーを握り締めてマンションへと向かう。
今度こそ俊平と話しをしようと気合を入れたつもりだったけれど……

エレベーターに乗りながら何と言おうと考えてみるもごちゃごちゃと考えてしまって中々言葉が浮かばない。
それなのに、部屋の前に来てしまった。

震える人差し指でインターフォンを鳴らしても返事はなかった。
暫く待ってみるが、何の反応も無い。
仕方が無くドアを開けて中に入る。
アルコールの臭いが玄関にまで漂ってきて鼻につく。
顔をしかめ、お邪魔しますと声をかけてブーツを脱いだ。
私のブーツの隣には、見覚えのあるスニーカーが乱雑に転がっていた。

突き当たりに見えたリビングだろうその部屋へと足を進めた。

開けっ放しにしてあるその部屋に一歩踏み入れると、より一層鼻につくアルコールの臭い。
シンプル過ぎて生活感の全く無い部屋の真ん中にあるソファ。
俊平はそのソファに寝転び目を閉じていた。
もしかして寝てるの?
足元に転がるお酒の残骸の数々を避けて俊平の直ぐ横まで近寄った。

足音で近寄ったのが分かったようだ。
「大地、遅せーよ。何処まで酒買いに行ってんだって。」
そう言いながらよこせとばかりに手を伸ばしてきた。

私を大地と勘違いしているようで手は何時までもそのままだ。私は
「俊平。」
と名前を呼んだ。

すると
「やべーって。大地の声が香也の声に聞えるなんて。」
と伸ばした手を顔に乗せた。

「俊平。」
もう一度名前を呼んだ。

ゆっくりと顔をこちらに向けた俊平は

「マジやべーって。今度は幻覚だよ、どんだけ重傷なんだよ俺。」
と言い出した。

私は、溢れてきそうな泪を堪えて、そんな俊平の前に座り顔を近づけた。
「俊平、一つ聞いていい?」

それでもまだ俊平は現実が分かっていないようで。
「なんなりと。」
と投げやりな声を出した。

「私って犬みたい?」
この突拍子もない言葉に俊平は答えてくれた。

「あぁ、いつも言ってるだろ、犬みたいだよ。本当に香也は……犬みたい……だ……」
そこまでだった。
どうやら限界だったようで、俊平は寝息を立て始めた。

私の頬は涙が溢れていた。
何にも言ってくれないって言ってたけどちゃんといつも言ってくれてたんだね。


あのノートには

俺の好きな人は”犬”みたいな奴

そう大きな字で書いてあったのだから。



足元に無数に転がる空き瓶や空き缶を纏め、シンクに残っている食器を洗った。
ここにきて初めて付き合っているらしき事をしている自分に笑えた。
そして、その日私は俊平の眠るソファに寄りかかったまま朝を迎えた。
何度も何度も私の名前を呼ぶ俊平の声を聞きながら。

私は、いつの間にか眠ってしまったその朝を小鳥の囀りでも、目覚まし時計でもなく、俊平の叫び声で目が覚ましたのだった。

「おはよう、俊平。」
そういいながら、スカートの皺を伸ばす私に固まる俊平。

人が固まる姿を始めてみた私。
ほっぺたをちょこんと突付いてみた。

途端に眉をしかめる俊平。
まだあの叫び声以外俊平の声を聞いていなかった。

私は昨日入ったキッチンに行きコップに水を注いで俊平に渡した。
俊平は無言でそれを受け取ると一気に飲み干した。

そして
「夢?」
と発した。

私は
「夢の方が良かった?」
と意地悪く微笑んでみた。

その瞬間ガッバッと立ち上がり私は物凄い力で抱きしめられた。
顔が俊平の胸に埋まってしまい何とか
「俊平……」
と声を絞り出した。



「香也が、香也がどんな気持ちでここまできたか考えたくないけど、俺もう無理だから。俺もうお前の事、……離せないから……」

言葉を発そうと思うけれど、頭の後ろに回された手が一層強く私を引き寄せて、窒息しそうで、何も言えなかった。


その日を境に俊平と私の付き合いは激変した。
これでもかと言うほどの愛情表現が始まったのだ。
そしてあからさまに嫉妬をするようにまでなった。
それは大地や美佐子にまで。


後日、大地と美佐子から聞かされた話は私を驚嘆させるものだった。

それは中学を卒業して、私が初めて彼が出来たと喜んでいた頃。
中学の頃から俊平の私への想いに気づいていた2人は俊平に何度も尋ねたそうだ。

それでお前はいいのか――


はじめは白を切っていた俊平はこう言ったのだそうだ。

――俺は初めての思い出の人にはなりたくないんだ、最後の人になりたいんだ。――

途中俊平にも誰もいなかったわけではないのだが、大地と美佐子は私の状況を逐一俊平に話していたらしい。
あの偶然も、美佐子が俊平に電車に乗る時刻を教えたものでかなりの計画性があったのだと。
俊平にとったら、偶然の出会いを装うわけだから、それも頻繁に。
だから社宅のことは言えなかったと。
私の理想に、そう中学のあの時期に描いていた理想の男に近づけるよう頑張っていた事も。



「じゃあね。」
私は家の前で別れを告げる。
その後、ほんの一瞬唇を掠める。
俊平は何度も振り返り、私に家へ入るようにジェスチャーする。
これが最近の私達のやりとりだ。

いつしか思い切って聞いてみた。

どうして、そんなにあっさり帰っていたのかと。
すると、俊平は平然と言ってのけたのだ。

だって、帰りたくなくなるだろ

って。じゃあ今はって思うのだけど、それは――
あまりにも恥ずかしいので内緒って言う事で。

俊平に言わせると、


最後の恋人になれるように





贅沢な願い事は、私よりも彼の方にあったようだった。